大学教員は学習や人生の相談相手たり得るか−−何を、どう「悩む」かについての独り言
寺谷広司
表題の応えがもしYesだとすれば、通念からは、大学教員たるもの優れた人格を有し、何かしら効果的な解決策で対処できると考えられているからなのだろう。もちろん、たった今のセンテンスの末尾には、携帯メール風に“(笑)”を付するべきだろう。しかし、ここではこの点にまつわる周辺事情に想いをめぐらせてみたい。
実は、私が学生「相談」事業に加わっていていいのか疑問に思っている。というのは、私自身も、自分の人生はこれで良いのだろうかとしばしば考えているからで、これはもはや手癖のようなものだ。もとより、社会や世界に好奇心と懐疑をもって接する職業についているのだから、自分だけが例外になるわけにはいかないはずである。ただし、そう自覚しているからこそこの職業を選んでいるので、(ややこしいが)メタ・レベルで後悔しているわけではない。もっとも、ある種のまとわりつくような後悔や不安は残る。
教員一般に相談相手としての資質があるのかと疑うことは、私にとって自然なことである。社会一般はどうやら教員を尊敬すべき人達だと考えているようで、失格教師が問題になるのは、社会が依然として(敢えて言えば孔子のような)教師の理想像を堅持していることも大きいだろう。しかし、私は「先生」と呼ばれる人達をそのようには思えない。これは自分の育った環境で「先生」と呼ばれる人達を間近に見る機会が多かったことが大きい。良くも悪くも人間臭かった。小学生の頃から自分にはある種の格率ができており、それは“親と先生の言うことは信ずるな”ということだった。事実、私の親=(高校の)先生だったし、かなり早いうちにこの格率にたどり着けたことは私の人生において幸いだった。
大学教員の場合、問題は一層複雑だ。というのは、大学教員は「先生」という「聖人君主」でしかも権力者で、他方、学者という悩ましさを醸し出す存在でもあるからだ。もちろんその一方だけの、ないしそのどちらでもない一群の人達が事実として増えているのだと反論されるかも知れないが、ここはとりいそぎ建前を貫いてもよいだろう。その上で私の個人的イメージを言わせて貰えば、大学教員の“先生の中の先生”というイメージに「変人」のイメージが重なる。これは必ずしも否定的にのみ言っているわけではない。変人を突き詰めたところに尊敬も生まれる(かもしれない)し、敢えて言えば愛情も感じられたのだから。しかし、こういった人達が、学生の相談に向いているのかどうかは大いに争いを残すだろう。
前任校にいたときに、母校たる東大法学部に相談室ができて専門のカウンセラーがいることをうらやましく思ったものだ。他方で、自分自身が学生時代にお世話にならなかったせいなのか、悩みくらい自分で解決しろ、という気にもなる。成績が悪いとか勉強法がわからないといって悩むのであれば、その悩みはつまらないと思う。(相談室に私は居ませんから、この文章を間違って読んだ学生の皆さんも相談室には安心して来て下さい。)更に学習に関しては、授業の後でも十分に付き合っているつもりで、疑問に思うべき点を思わずに通り過ぎていく人達に比べれば、よほど良い。この点、自分の学生時代を振り返って、他の先生達も質問には概ね丁寧に応えてくれていた。だから、学生はそれほど恵まれていないのだろうか、と考えてしまう。つまり、どうなのだろう?もしかしたら、どうも「小さい」ことで悩んでいるような気がしてならない。そんなとき、私達は必要ですか?
しかし、悩みくらい自分で解決すべきじゃないかという趣旨のことをある飲み会で話したところ、某先生には強い反対論をうけ、カウンセラーの重要性を熱心に説かれた。いや、私もそれを否定しているわけではないのだ。そして、私も悩みには価値的な序列があると考える一方で、もしかしたら、そもそも、小さい悩みなんて存在しないのかもしれないとも思っているのだ。更には、もう少し距離を置きつつ、そもそも「悩み」はどのように生まれてくるのだろうかと思案したりもする。一つの可能性として、――自殺が生命力に溢れた結果である(そういう場合がある)ことを頼りに思考をめぐらしたのだが――「悩み」は何かしら、高すぎる目標や自分に対する不当に高い期待のために起きているのではないか。「個人の尊厳」「人間の尊厳」が口にされるわけだが、しかし、自分はどれくらい他と異なっているだろうか、それほど人間(あなた、私)は立派なことをしているだろうか。ある一人は別の一人を大幅に上回るほど素晴らしいとは思えないし、そうであるなら、何かを達成出来ないことに悩むことはばからしいことのように思う。もちろん、個々の成功や不成功が人生の喜び・悲しみとなることはよく分かるし、自分自身にとってもそうである。また、個々の人間に尊重すべき点が全くないと思っているわけではないし、更に言うと尊重されるべき可能性はすべての人がもっていると思う。しかし、それは人間の身の丈にあった範囲のようにも思う。
私が好きな話として、心理学者もまた病んでいるという話がある。病んでいる人に付き合えるには、自分自身が病んでいないといけないというのがその理由らしい。ここまで読んでくれれば、多くの人が、悩みについて悩む私を相談者として適格だと認めてくれるかもしれない。しかし、もしそのことに賛成してくれるなら、逆に、あなたに悩みがあるとしても、あなたは一人でやっていけるようにも思います。
(長文のため一部略)